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September 26, 2004




incoherent ridiculous essay: めくら
This is my pathetic attempt at an analysis in Japanese on one of Natsume Soseki's short stories in Yume Juu Ya for my Modern Japanese Literature course. Really, I can write much better than this. Really. Yes, really. :(

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めくら

第三夜の主人公は色々な事見えなかったけど、だんだん見えて、やっと最後で分かった。これは仏教の様な変化であった。仏教には世界の中の事が分かるのが大切である。その自覚の事は自分の事に変わるのとして行く。この人は何が自覚したか?最後くらい、彼は人を殺す話が出てきた。その殺す事が自覚して、その罪悪感がやっと感じたから、背中の子の重さも気が付けた。こんな自覚があったから、『石地蔵の様に重くなった』と書いた。その前に、背中の子は『小僧』という事と書いたけどその言葉は二つの意味がある。一つは子供という意味である。けど他の意味は若い仏教のプリーストである。そして、『小僧』と書いたら、この仏教のテーマが守る。しかも、最初で、『青坊主』と書いたけどこれはまた二つの意味の言葉である。一つははげ頭という意味である。けど二つはお坊さんの事である。こんなに書くと、礎石ははっきりに仏教的な事を書いていた。

さらに、色々なビジュアルなイメージもある。『眼が潰れて』ほか『闇』『盲目』『 路はだんだん暗くなる』と書いた。これは仏教の様な話である。というのは、仏教には世界の分かる事である。それは現実を見る事である。この物語の中に、主人公は歩きながら、現実まだ見えなくて、まだアクセプト出来なかった。自分の眼が潰れる事と青坊主になる事も前に見えなかった。雨は降る事もいつ始まったか分からなかった。彼は本当に仏教の眼で世界の気付きが持ってなかった。盲の様に現実を見えなかった。また、『鏡の様に光っている』と書いた事も仏教的なビジュアルなイメージである。鏡で見る事の様に自分の事を見たら、自分の事が変えて、本当の世界が見える。けど、その鏡の中で見る事は簡単ではない。皆は自分の事によくはずかしいから。主人公もはずかしかった。『自分は堪らなくなった』と思った。彼は自分の事を他の人に見せられたからはずかしくなった。それは自分の事がまだアクセプト出来なかったから。



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